森美術館と国立新美術館の2館でやってるサンシャワー:東南アジアの現代美術展に行ってきた。
実は、あまり興味がなかったのだけど、インドネシアのキュレーターの友だちが「君が昔大阪で見たアディア・ノヴァリの作品が出てるよ」というものだから、行かねばならない雰囲気になってしまったので行ってきた。
数年前に大阪で見たアディア・ノヴァリの作品はおもしろかったのだけど、今回のものは正直まったたくピンと来なかった。それでも友だちのキュレーターには良かったよと言うのだけど…。
2館開催で、とにかく量が多くて、現代アートで基本よくわかんないしでとにかく疲れたのだけど、良いなと思える作品にも何点か出会えて非常に有意義だった。
まずは1番良かったのはこれ、
首のない仏像の写真。本来はこれらの仏像にも首から上があったんだけど、紛争のさなか首が盗まれ、それが流れて欧米の美術館や博物館、個人収集家の間で取引されているのだそうだ。一方で、この首のない仏像も地元では信仰の対象として存在している。
作家は、ベトナムかどこかの生まれで紛争で祖国を離れざるを得なくなり、外国で生活をしている…的な説明があったような気がする。要するに、自分の境遇を仏像の不遇を重ねている。
まるで出稼ぎ労働者のようだと感じた。知り合いもなく、言語も違う外国で1人家族のためにせっせと働く彼らの境遇をぼくは想起した。敢えて当てはめると、彼らの頭脳や能力は国外で重宝され、彼らがもたらす仕送りは貧しい祖国の家族の生活を潤すとでも言おうか。もちろん、より良い機会を求めて望んで地元を、祖国を離れた者も多いだろうけれど、それでも誰しも自分の生まれたところというのは大事なものだろう。
ぼくにしたって、より良い機会を求めて、望んで故郷を離れたけれど、未練はまったくないし戻る気もさらさらないけれど、口では「あんなところ希望もなにもない」なんて言うけれど、自分の生まれた場所を大事に思っているし、ほんとは故郷を良いところだと思っている。そして自分のご先祖のことも、本当のところはわからないけれど、立派な人であってほしいと願っている。
滅多に帰省もせず、なかなか息子に会えないことを家族は、特に母は寂しがるけれど、それは仕方のないことだ。だって故郷には機会がないのだから。
理想を言えば、地元で気の良い仲間と豊かな生活をおくるのがいいんだろう。けれど、ぼくが生きているのは理想の中ではなくて、あらゆる問題が山積する厳しい現実なわけで、それらと上手く折り合いをつけなくて生きていかねばならない。
そんなことをふっと感じたぼくはこの作品が欲しいとさえ思った。
あと、印象的だったのはインドネシア的だったりタイ的な名前に改名を迫った歴史をもとにしたもの。英語名と和名で呼び名がそれぞれ違うように大したことではないのではないかと思うようになった、みたいなことを語っている映像作品があって、不遇の乗り越えた方というか、現実の受け入れ方というのか、折り合いの付け方が良いなと。
カオスで勢いを感じるアジアっぽい作品。
最近の現代アート系の展示会は写真OKなのが良いよね。