もうずいぶん前になるけれど、オランダ人の友人に着物を着せて京都を案内した時に何気なく純粋に尋ねられた。
当時は、いやいや君らも木靴を現代じゃ履かないないだろ?それと同じだよ。着るのに手間がかかるし。もう時代が違うんだよ、というようなことを答えたと思う。
それで、その時はそんなもんかというふうなことになって深く掘り下げることはなかった。
今年の夏、インドネシア人の友人を同じようにアテンドした。
後日、インドネシアから感謝のしるしというような意味合いでバティック*1が送られてきた。
彼らインドネシア人はこのバティックをシャツにして、アロハシャツのように普段着として着ている。大事な式典だとか公式の行事にはもう一つのグレードの上がったものを着るようだ。
何気なく、さも当たり前のように接していたけれど、そう、彼らは普段から彼らの文化を纏っている。もちろん、Tシャツを着ることもあるけれど、普段着の選択肢の1つとして普通にバティックがある。
インド人も事情はよくわからないけれど、クルタやサリーを着ている人がまだまだ多い。というか目につく。
ふと、これはアイデンティティの危機なのではないかと思った。
日本語は話すけれど、自分の文化を、ルーツを忘れているんじゃないかと。
正直、着物を着たのは七五三参りの時と、そのオランダ人を京都に連れて行った時だけだ。着方も名称も、浴衣との違いもわからない。
けれど、特別知りたいと思わない。知っておかないととも思えない。日本人なのに。
文明開化の鐘の音がなったころ、急速に欧米化が進んでそれまでの日本的な装いをダサいと思うようになってしまった?いや違う。ぼくはその時はまだこの世にいない。
発展、新しいことをするのを良しとする文化の中で、伝統的なものを単に古い (≒改めるべき改善点) と切り捨ててしまう文化が知らず知らずのうちに根付いてしまったのが、現代のぼくにも影響している?いや、それもゼロとは言えないけれどそこまで合理的な文化が社会にあるとは思えない。
ダサいとはもちろん思っていない。けれど、自分から能動的にどうこうしたいというのは正直、自分の中にはないように思う。日本文化を紹介、というなときに利用する程度といったところか。
最近、いろいろ考えていたんだけど、どうでもいいかと思うようになった。だってわからないんだもの。自分の中にそんな文化がないとしか言いようがない。
たしかに、ぼくは日本に生まれて、これまでの人生の大半を日本で過ごしてきたけれど、着物を普段から着る文化はなかったし、そういう家庭でもなかった。つまり、ぼくはそういう文化に接することはなかった。
冠婚葬祭でたまに着ている人がいるな、と思う程度。あとは、舞妓さんくらい。
たぶんほとんどの日本人も同じだろうと思う。
たしかに、かつては「あった」けれど、今はない 。あるいは、ちょっと敷居が高くなってる。要は、少し誇張すればぼくにとっては馴染みがなく、違和感があるものになっている。
良いとか悪いとかは別として、現状そうなってる。
そして残念ながら、ぼくはそれについて由々しき事態だとも思っていない。
だって、日本にはあってもぼくにはもともとなかったんだから。