最近デートした中華系シンガポール人がクチャラーだった。去年の夏頃デートしてた中華系タイ人もクチャラーだった。*1
今回は前例があるからある程度免疫ができていたとはいえ、それでも「え、」と思ってしまった。結構、気になった。
去年、初めてその女性のクチャラーを目の当たりにしたときは、びっくりしたのと恥ずかしいので軽くパニックになりそうだった。
一般的にクチャラーというのはめちゃくちゃ嫌われる。ぼくもかなり嫌悪している。
もし自分の好きな人がクチャラーなら100年の恋も冷めてしまうとまでは言わないけれど、かなり幻滅してしまうだろうと思う。
たいてい、クチャラーというのはおじさんに多いと思っている。ラーメン屋で隣のサラリーマンがクチャラーだったとか。
なんで不快かというと、気持ち悪い、汚くて品がなくて低俗に感じてしまうから。
なんで品がなく感じるかって、それはもうわからない。
そういうものだと教わってきたから。
それ以外ない。少なくともぼくには。
ぼくはそこまで理解してたから、目の前の麗しい女性がクチャラーであることが発覚しても、100年の恋も冷める、みたいなことにはならなかったんだけど、それでも初回の衝撃は大きかった。
その時は、これも文化の違いかなと軽くとらえていて、それ以上考えることはなかったんだけれど、ついこの前、研修で日本に来てるフランス人と蕎麦を食べに行ったときに、ぼく的に面白いことがあった。
彼は蕎麦を食べたことがないというので連れてったわけだけど、見事に無音で食べていた。
ぼくはズルズルとすすっているし、周りの客もすすっている。
音を出してもいいんだ、むしろ出す食べ物だと言っても無理だと言う。
出そうにも出せないのだそうだ。
コカインを鼻から吸うようにスッとやれば音は出るものだけれど、物理的というよりも精神的なところが大きそうだった。
そこに至って、ぼくの中でなにかがつながった。
たぶん彼は蕎麦屋で不快感を感じていただろうと思う。
ぼくがクチャラーの女性を食事をともにしていたときのように。
同じように理性と感情を戦わせていたろうと思う。
自分たちの文化ではありえない下品なことでも、彼らの文化では普通のことであって、それは何らおかしなことじゃないんだ、と。
ぼくも同じようにくちゃくちゃ口を開けて食べられるかと言うと、たぶんできないと思う。もちろん不可能ではないけれど、ほんとにわざわざ音を出して食べるんだぞーと意識してないとできない。
それだけ自分が浴び続けてきた文化圏の「普通」というのは無意識なんだけれど排他的な力があるのだと思う。これは、たとえばミミズにおしっこをかけるとち〇ち〇が腫れるからかけちゃだめよ、みたいな小さいときき刷り込まれた迷信っぽいものと違って理論武装しにくいのかもしれない。
いわゆる思い込みは実際のデータなりなんなりを見れば解消されると思うんだけれど、習慣っていうのは、頭ではわかっているんだけどね…となりやすいのかもしれない。
*1:文化の違いを論じようとしているのであしからず