今年度から、知財マネジャーに加えて、マーケティング部門も統括することになりました。
なぜぼくがという話になるかと思うのですが、これは単純な理由で、社内でぼくより詳しい人がいなかったからです。会議であぁだこうだ言っていたら、じゃあお前やれよという話になりました。*1
消極的理由ですが社内レベルで見るとベストな選択ということになります。
*1:中小メーカーの人材不足バンザイといったところでしょうか。中途半端な知識しかなくても、それなりの裁量を与えてくれます。
さあ、才能(じぶん)に目覚めよう 新版 ストレングス・ファインダー2.0
意識高い人たちはみんなやってる自己分析、ストレングスファインダーをいまさらではあるけれどやってみた。
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ぼくは常に笑える話に仕立て上げられたエッセイを求めている。若い時の苦労話だとか、とにかく金がない時代の話、青春時代の話、云々…。
ぼくがなぜそれらを好んでいるかというと、一見些細なことに見えることに対しても感情を爆発させる必死さが垣間見えるからだと思う。
続きを読むアラサーにもなってこんなことを言うのもおかしなことだけれど、ようやく精神的な落ち着きを感じだした。具体的には、嫉妬している自分を冷静に感じることができるようになってきた。
ぼくは劣等感を感じやすい。
自分と同世代や下の世代で自分より優秀な人を見ると、自分が情けなくてたまらなくなる。
英語を流暢に話す人や、それに加えて中国語やスペイン語もマスターしてる人。プログラミングもできて容姿端麗…みたいな絵に描いたような人たち。
同じ時代を同じ時間過ごしてきたはずなのに、ぼくは今まで何をやっていたんだろうと惨めになる。
昔は、「ただ英語ができるからってだけで優秀なわけではない」「ただの帰国子女で運が良かっただけ」なんてエクスキューズを作って無意識に妬み、自分を守っていたんだけど、そんなことをいつまでも言い続けても、英語も中国語もスペイン語もプログラミングもできない自分の現実はなにも変わらないとようやく気づいた。彼らの人生と自分の人生は関係ないのだ。
10歳までNYで、10歳から18歳まで香港だったから英語と中国語はできる、ちなみに大学はハーバード♡みたいな人には抜群に嫉妬するし、いいなあと思うけれど、昔ほど心かき乱されなくなった。彼らがどんなにラグジュアリーで良い暮らしをしていようが、なにか自分が損するわけでないから。
思えば、電車も通ってなくて、たぬきとかイタチを追いかけて育ったような関西の田舎出身で、外国人も中学と高校でAETの3人しか見たこともないような環境だった。在日韓国人や中国人でさえ大学まで会ったことなかった。親戚で一人東京に単身赴任している人はいたけれど、他はみんな関西に住んでいたし、英語を話す人も当然いない。
父は大卒で、母もわりと教育熱心で大学は行きなさいという方針だったから当たり前のように神戸の大学へ進学したけれど、なにも言われなかったら地元を離れることはなかったろう。いやだったとかでなく、単純にそんな発想はなかった。
高校進学のために中学の時は塾に通っていたけれど、その先の大学なんてのは、うっすら聞いたことある程度で、大学に行けばどうなるのかなんてまったく想像もできなかった。高校は部活をやるために行くのだと思っていた。
その部活も、15歳にしてわざわざ親元を離れ、部活のために寮生活をしたわけだけれど、結局最後までレギュラーになることはできなかった。
大学進学後、司法書士になろうと、たいして遊ぶこともせず、友達も作らずにそれなりに勉強したけれど、結局なれなかった。
卒業後も諦めきれず、3年ほど勉強をしていたけれどだめだった。
失敗、失敗で、つくづく自分が嫌になった。
得たものはなにもないのに、失ったものがあまりにも大きかった気がした。
そんなぼくが、東京の競争社会でなんとかやってる。中小のメーカーで、小さいながら重要な部門のいくつかの責任者をやってるんだから人生なにがあるかわからない。
人見知りにもかかわらず、15歳のあのときから、だれも知らないところでの生活を続けてきた。神戸で、一時期はフィリピンやインドで。そして東京で。
もちろん、良い機会を求めて地元を離れたのはぼくが初めてではないし、ぼくのような境遇の人なんで何百万人単位でいるだろう。
それでも、ぼくの家族では初めてのことだし、当然、ぼくの人生にも初めてなこと。
やりたいことは山ほどあって、全然満足なんてしていないんだけれど、それでも、これまでの道のりを思い返すと、自分でもすごいなと思うことがある。小さいながら多くのハードルを越えてきたなあと。
よくやってると思う。だって19歳までTOEICなんて知らなかったし、読み方もわからなかった。それがいまじゃTOEICは800点超えてるんだし、英語でしかコミュニケーションが取れない友達もたくさんできて、海外一人旅も電車で隣の駅に行くくらいの感覚で行ける。
仕事も、まだ2年目で業界のことをよくわかってはいないけれど、任されている特定の分野では社長と議論するし、意見を求められてる。
たぶん、ぼくはまだまだこれからもアホほど失敗して、えらくヘコむだろう。それでもたぶん、ぼくは挑むことを止めないと思う。
それは、どれかが、いつかは報われるとこれまでの経験からわかっていて、立ち止まることが一番の危険だということをこれまでの経験からわかっているからだと思う。
写真は2012年7月、フィリピンにて。
日本語だけの環境から急に英語だけの環境にきて疲れきって昼間から寝落ちした、ぼく
「どうよ、真夜中の試作。寝れたかい?」
「会議室の椅子はふかふかしてたんで、苦痛というわけではなったですよ」
「chad君はいいよねぇ。明るくて。辛いこともあると思うんだよ。けど、良い面を見てね、前向きで」
工場での深夜の試作立ち合い後、会議室の椅子を3つ並べて仮眠を取ってから東京本社に出社したときの上司とのやりとりだ。
続きを読む海外営業のくせにTOEICのスコア800ないってやばくない?と言われ続けてしばらく経ったけれど、ようやく800超えた*1。試験対策を一切しなかったというのが時間かかった要因だろうけれど、それでも超えたわけだから、ぼくの勉強法などを公開する。
*1:まず、TOEICのスコア低くても海外営業なんてできるのかという疑問があるだろうけれど、それはもちろんできる。なぜなら特定分野の言葉でだいたい会話のパターンが決まっているから定型文をいくらか用意してたり暗記してその中でいくらか置き換えできれば大丈夫。相手の言ってること丸々わからなくても、特定の単語が聞き取れれば、あーあのこと聞きたいんだろうなと察することができる。それに、損害賠償だとか繊細な話になるときは通訳を雇うから何も問題はない。資料も用意するしね。ブロークンでも何も問題はない。向こうもネイティブじゃないし、英語が得意でない場合もあるし、そうなると、現地語ー日本語の通訳か現地語ー英語の通訳を雇っている。もちろん流暢にできるに越したことはない