あまり気乗りしなかったのだけれど、六本木の国立新美術館でやってるルーブル展に行ってきた。気乗りしない理由はクラシックなものであること。
要は、誰の目にもそれは素晴らしいものだという価値が既に定まってしまっていて、純粋に作品どうこうというよりも、まずすごいという前提でどうやったって見てしまう、下駄をはかせた状態での作品鑑賞になってしまうから。
それでも行った理由は、友達に誘われたから。そして、「人は人をどう表現してきたか」というタイトルが気になったから。
実際にどうやって絵や像っていうメディアを使って権威付けをしたり、美しさだったり、作家が自身の作品の見て欲しいところを表現しているのかが気になった。早い話が、単純な芸術鑑賞なんていう高尚なものではなくて、実務レベルで応用できる技術を盗みに行ったのだ。
結論から言うと、新たに得たものはー知覚できているレベルでいうとー何もなかった。
古代エジプトの石板だとか、古代ローマの石像、ナポレオンのデスマスク、戴冠式の絵に石像…いろいろ本物を初めて自分の目で見たものもあったけれど、そこに散りばめられたモチーフ、ナポレオンでいうと月桂樹という古代ローマの象徴とフランス王家の紋章を組み合わせた衣装を身に着けることで、彼自身の戴冠に正当性を大衆に訴えた(うろ覚えだから細部に誤りがあるかも…)なんていうのは、いろんな本や話の中で語られたりしていて知識としては知っていたりする。
古代ローマ人でもフランス人でもないぼくは、そのモチーフになんの感情も抱けないわけだけれど、1つ言えることは、彼ほどの英雄性というか人気のあった人でさえ、自身を時代のイレギュラーとして歴史に組み入れるのではなくて、慎重に歴史の文脈の上に自身の立ち位置を示したんだな、と。
それほど正当性という文脈は彼の地では大事だったのかと思わされた。
そういう歴史関連の展示でいうと、時の権力者の肖像のコインやなんかの小物の展示も行っていて、そこになんていうのだろう。ブランディング的な何かを感じた。そういう目線で見たことってたぶん今回が初めてだったから、そういった意味ではいくらか新鮮だったかもしれない。
こういう歴史が欧州のブランディング力のベースになっているというか、積み上げてきた文脈というか強さの源なのかもしれない。積み上げてきた量と歴史が違うってやつ。
日本はこういうところ、戦国武将なんかは強かったのかもしれないけれど、属人的というか上手く積み上がってきてない感があるのもかもしれない。こじつけていうと、それが日系企業のブランディングの弱さというか実績のわりに低いプレゼンスに繋がってしまっているのかもしれない。少なくとも欧米のパースペクティブとか文脈で見ると。
周りができていないことだから、個人的には徹底的にパクりたい。
展覧会の印象はそんな感じだったのだけれど、1つ印象的な像があった。
ペストが猛威を振るっていた時代に亡くなった女の人の像だったのだけれど、それはお墓に安置されるものだそうだが、その像美しくはない。全く。むしろグロテスク。
それはぼくの美的感覚がどうとかいうわけではなくて、実際に結構絵えぐい表現をしている。腹は蛆がわいているし、顔は頬がこけて目がくぼんで骸骨のようになっている。
異彩を放つその像は、女性の生前の美しい姿の像と一対になっているらしい(美しい方は展示されていない)。なんでわざわざ苦しくおぞましい姿を残したんだろうと思わざるを得なかった。そんなことをしては後世までその女性は「蛆のわいた白骨死体で発見された人」として記憶されてしまう。
それくらい衝撃的な像になっている。それに、ペストの時代なんてそこら中で死人がでていて、終末感が漂っていた暗い時代ではなかったか。
なにが言いたいかというと、わざわざ残すほどのモチーフか、むしろ早く忘れたい記憶ではないのかとか、何の意味があったんだろうと思ってしまった。たまたまなのかもしれない。ペストの時代はいずれ終わりが来て、その時この石像は貴重な歴史の語り部になると作家はみたのか。そこに何か物語性を感じた。
今回の展覧会で、この作品の背景に思いを巡らせることができただけでも、くそ暑いなかチケット買って展覧会に行った価値はあった。
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