どうしてぼくはこんなところに

冷静と情熱の間で彷徨う人の雑記ブログ

ノースキルの外国人が日本で安定した職に就くまでの苦労に思わず涙した

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今からちょうど6年ほど前、当時ぼくが入り浸っていた神戸のカフェで、ラージという30過ぎのインド人と出会った。

 ちょうど、ぼくが初めての海外旅行から生還したばかりの興奮さめやらぬ頃で、勢いもあったんだろうと思う。普段なら自分から話しかけるなんてことはしないのだけど、覚えたての英語で「きみインド人?ぼく先週までインドにいたんだよ」なんて話をした。

彼は、ぼくが訪れた都市とは違えど先週までインドに住んでて、そこで知り合った日本人と結婚したばかり、日本に引っ越してきたばかりだった。*1

彼は、インドでは名のしれた観光地のホステルのマネジャーをやっていて、そこのゲストとしてやってきた日本人女性と恋に落ちて日本にやってきた。

「すごく楽しみなんだよ、日本にはチャンスがいっぱいあると思うから」

 インドはいまなおカースト制が根強く残っていると言われていて、なにかと制約や利権による不自由の多い地だというのがぼくの理解で、彼らインド人は極東アジアの日本をアメリカとまともに戦争をした国として、そして経済大国として夢の国として見ているというのを誰から聞いたことがあって、彼も同じように思っているのだろうと思った。

ちょうど街中にインド料理屋がそこかしこに勃興しだす直前のような時期で、彼もまずはインド料理屋で働くらしかった。なんでも、奥さんのコネによるらしい。

奥さんの国で、奥さんから紹介されるのは当然9割が女性というのもあって、数少ない男で英語がある程度通じるぼくはラージにとっては貴重なようで、ぼくは何度か彼の家にも招待された。

本場の味を教えてやろうという誘いに乗って彼と奥さんの待つ家に訪れたとき、「お前は鍋焼きうどんを知ってるか?あれめちゃくちゃ旨いよな、今日はアレを食おう」というまさかの展開になったこともあった。

日本のビールも飲むし、いつかもう少し日本語がうまくなったら地元の消防団にも入りたいと言っていて、日本を気に入っているようでぼくは単純にすごくうれしかった。

言語も文化も見た目も異なる異国での生活に馴染めているようで安心もした。

数ヶ月に1度程度の頻度でそういう交流をしていて、彼と奥さんの間に子どもも生まれてみたいなライフイベントもあったりしたんだけど、いつの頃からか彼の口からネガティブな話が多くなっていた。

神戸には昔からインド人コミュニティというのがあって少ない数のインド人がいて、中古車販売系のビジネス*2をやっているインド人は金持ちで飲食系の仕事は貧乏という身も蓋もない現実があるわけだけど、彼は後者で数年経ってもいまだバイト扱いだった。ちなみにレストラン自体は個人経営というわけではなく、3店舗ほど関西と関東にあって他にスパイス屋も、と手広くビジネスをやっていてオーナーはシンガポール在住とお金がないわけではない。

すぐに正規雇用にしてあげるからという口約束があったらしいが、守られる気配はないらしい。おまけに昼前くらいの出勤で終電間際に帰宅、休日は週1回あるかどうかという激務だった。

そんな生活リズムだから、会社員として働いている奥さんとは生活リズムが全然異なる。奥さんが出勤する時間は、彼はまだ寝ているし、彼が帰宅する時間には既に奥さんは寝ている。彼らの子どもも同様。彼はほぼ寝顔ばかり見ている。

かろうじて週末の朝、彼の出勤前までの時間に家族の時間があるくらい。

インドでも、どちらかと言えば田舎のゆったりした時間軸の中で生きて彼にとっては、信じられないことだろう。日本に理想の生活を求めて移住してきたのに、彼の思い描いていた日本での人生と現実とのギャップに悩んでいた。

さらに不運なことに、彼はそれなりに優秀らしくレストランで支配人に早々にランクアップしたのだけど、彼よりも前からいるインド人スタッフから嫉妬をかっていた。

上がらない時給、不安定な雇用形態、長時間労働、減り続ける家族の時間、職場でのやっかみ…。

良い要素は何1つなかった。

その状況を彼の奥さんもかなり気にしていて他の仕事を探していたんだけど、いかんせんここは日本で、この国は英語が話せたところで、日本人の大半は「How are you? fine, thank you」程度の理解しかなく、つまりはuselessで、プログラミングなどの技術や専門知識もないので日本語が話せないことには、少なくとも日本人スタッフと日本語でコミュニケーション取れないことには需要はほとんどなかった。

なにか良い案はないか、仕事はないかという相談がぼくにも何度かあった。

当時、インバウンドが持て囃され始めた頃だったこともあって、ホテルで働くくらいの案しかでなかった。そのホテルにしても、英語人材の需要は大阪、京都では結構あったと思うんだけど、彼らが住んでいたのは神戸で、もちろん通える距離ではあるんだけど、奥さんは神戸に思いやりがあって離れたくないという意向で凝り固まってて大阪までという考えはなかった。

ハローワークにも何度も足を運んだそうだけれど、いかんせん日本語が完璧ではないというのもあって、紹介されるのは工場だったりする。*3

要は、日本語ができなくても働ける仕事を紹介してくれているわけで、それは互いのニーズにマッチすることではあるんだけど、それじゃあいつまで経っても日本語やその他のスキルアップはしないし、何より彼は家族との時間を得るために平日昼間の仕事を求めていた。彼は外国人として日本で働くのではなく、「普通」の日本人のように働きたがった。

一般に移民の生活というのは基本的に、その国の人たちがやりたがらない仕事しかまわってこない。いわゆる、きつい、汚い、危険の3K。*4

だから、彼や彼の奥さんの気持ちもわかるので同情しつつ、一方で冷静に考えれば現状の認識が甘いと思わざると得ず、とにかく日本語がもっと流暢にならないと現状からは抜け出せないという印象だった。

その間、子どもは順調に成長していて、奥さんは週末は休みなので子どもと公園や動物園に連れて行ったり、七五三参りもいっていた。

それらの写真をぼくは見せてもらって、こんなに大きくなったんだよ、という話を聞いていて、ぼくは何も貢献はしていないんだけど、もうすぐ子どもが生まれるんだよという時から知っていた身としては、なにか感慨深いものがあった。一方で、それらの写真のどこにもラージの姿がないのが悲しかった。

そんな中、ぼくが神戸を離れてラージとも年に1回会う程度になってしばらくの昨夏、彼から仕事を変えたという連絡がきた。

なんでも神戸の資料館のようなところの管理人のようなことをやるらしい。

思わず涙がでた。自分のことのようにうれしかった。

ハローワークに1人でいって、職員の人と噛み合わない会話を何度も何度もしていたのを知っていたから。

寝る間を惜しんで日本語の勉強をめちゃくちゃしたんだろうなあ。

いつでもまずは笑顔で迎えてくれた彼の顔が思い浮かんだ。

 

おめでとうラージ。

来日から6年。長かったな。

これでやっとゆっくりできるな。

 

 

日本と出会った難民たち――生き抜くチカラ、支えるチカラ

日本と出会った難民たち――生き抜くチカラ、支えるチカラ

 

 ちょっと関連する話として。

日本は難民を他の先進諸国と比べて極端に受け入れていないのが現状なんだけど、そんんな中で日本に来た、来てしまった人たちはどんな生活をしているのかというルポ。多少、過剰だったり感情論で語られてるふうに感じるところもあるけれど、概ねその通り、厳しいと思う。だからといって、求人系は英語圏じゃない日本にどこまで求めるのかという話になるところもあるけれど。

 

*1:その奥さんである日本人女性もいわゆるバックパッカーでインド放浪中に会った現地人と一瞬で恋と結婚を決意して、日本に連れて帰ってくるなんていうなにかすごいことをやってのけてるんだけど、それはまた別の機会に

*2:日本の中古車や、車のパーツをインドやアフリカに持っていって販売。阪神淡路大震災以後、それまで神戸港にやってきていた貨物はみんな横浜や東京に移動してしまい、その代わりに日本中の中古車が神戸に集まるようになったらしい

*3:この工場勤務というのはシフト制で、夜中なんかにバスでどこが地方の工場へ行き、ラインの中で電子部品の組立てや検品などを行って帰ってくるというもの。流れてくるカニを大きな包丁でひたすらぶった切るというような食品加工の工場の仕事もあるようで、日本語を学びに来たアジア系の人が多く働いている。その他、ヤマトなんかの物流の配送センターなど

*4:もちろん、一部の高学歴エリートが管理職クラスでやってくるけれどこれはほんとにごくごく一部だ