どうしてぼくはこんなところに

冷静と情熱の間で彷徨う人の雑記ブログ

アートは各々の欲望に訴える

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アートとはなんだろうか、みたいな禅問答はそれこそ昔からいろんなアーティストがやってきていて、美しくないとアートじゃないのかとか、いろいろな挑戦がなされているけれど、その時々のトレンドはあっても答えはないものだと思っている。

定期的に日本にやってくるゴッホやモネやマティスフェルメールボストン美術館展だとかのいわゆるクラシックな展覧会に良く行っていたんだけど、正直、写真や絶景の映像を見慣れているぼくにしてみればよくわからない。みんなが美しい、素晴らしいといういうんだからすごいんだろうなという気で見ていた。そう、ぼくは審美眼なんてものを持ち合わせていないし、なんなら美的センスもないのだ。

それで、ぼくは「芸術は教養」みたいな固定観念を持っていたのでこれじゃいかんと、

 

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

 

 とか、

芸術起業論

芸術起業論

 

を読んで「文脈」の存在を理解した。

 

昔付き合っていた芸大生は「なんでもいいの。それにたいして何か適当に論じて、誰かが納得とか理解ができれば。」みたいなことを言っていた。

何かを表現するというのは個人の営みによるものだと思うんだけど、それがアートになるためには誰かの承認がいるということなのかもしれない。

ぼくは極端な話、アート界の重鎮みたいな権威がある人が「すばらしい!」とお墨付きを与えれば、他の人がその作品の価値をさっぱり理解してなくても、自分もあの重鎮が価値を認めている点を理解できるぞ!みたいな見栄を張りたい気持ちが勝って、追従して、そのうち誰か金持ちが「俺はそれが理解できるから、これくらいの金をだそう!」みたいな話になって泊がつくというか、ホンモノになっていくのだと思う。

そういう穿った見方をぼくはしている。*1

それで、クラシックな作品の鑑賞が一通り終わって、教養目的の美術館通いも終わってしまったのだけど、ぼくもお洒落な人だと思われたいという欲望があるし、なにかクリエイティブなことをやりたいという思いは常に持っているから、いまは現代アートだとかなにか新しいものを体験しに行っている。自分がそれまで持ってなかった、感覚だとか、視点、みんなが今なにに注目しているのかを探るために。

 

小説家のカート・ヴォネガットは、

芸術では食っていけない。だが、芸術というのは、多少なりとも生きていくのを楽にしてくれる。いかにも人間らしい手段だ。上手であれ下手であれ、芸術活動に関われば魂が成長する。シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できる限りよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから。 

なんてことを言っていて、こういうの素朴だけれど素敵なことだなと。

ぼくも日々ヘタクソな文章に嫌気がさしながらも、いつか上手になるだろうと思ってしたためてる。基本的に独りの時間が多いぼくにとって、このブログを書く時間というのは自分と向き合う時間にもなっているかもしれない。その自分の中の黒い欲望とちゃんと向き合ってそれを適切に表現できるようになれば、ぼくにも信じられない見返りがやってくるのかもしれない。

 

あれやこれやと言いながら、ぼくはアートに接したり、ブログを書いたりしながら絶えず自分の自己顕示欲やなんやらの欲望と向き合っているわけだ。 

そういえば、参考までにではあるけれど、敬愛する モームは著書の中で、

 画家ってものはね、その眼で見る物から、一種独特のセンセーションを受ける。すると、それを、なんとかして表現しなければいられないのだ。しかも彼は、なぜだかわからんが、ただ線と色とによってしか、その感情を表現することができないのだ。音楽家も、同じだ。たとえば、1行か2行読む、とある特定の音の結合が、自ずからにして、彼の頭に浮かんで来る。なぜしかじかの言葉が、しかじかの音を、彼のうちに呼び起こすか、そんなことは、知らない。ただ、そうなるというだけなんだ。そうだ、批評なんてものが、いかに無意味か、もう1つ理由をいってやろう。本当に偉大な画家ってものはね、彼が見るままの自然を、世間に向かって、押しつけるものなんだよ。ところが、次の世代になると、別の画家は、また別な風に、世界を見る。ところが、一般世間って奴は、彼によって、彼を判断するんじゃなくて、彼の先行者によって、彼を判断するのだ。だから、たとえば僕等の親たちに対して、バルビゾン派が、ある種の木立の見方を教えた。ところが、モネが出て、まるで違った描き方をすると、人々はいうんだ、木は、そんなもんじゃないってね。そもそも木なんてものは、画家が、それをどう見るか、それ1つで、決まるもんだなんてことは、全然気づかないのだ。僕等はね、内部から、外に向かって、物を描く―たまたま僕等の眼を、世間に押し付けることができれば、世間は、大画家というし、出来なければ、頭から無視してしまう。だが、僕らは、いつも同じなんだ。偉大だろうが、つまらなかろうが、そんなことは、僕等にとって、なんの意味もない。僕等が制作する、その後に起こることなどは、一切無用。僕等は、描いているその時に、制作からえられる一切のものは、すでに吸い取っているのだ。

と語っているけれど、こういう精神の強さは欲しいところではある。

 

もちろんぼくだって自己満足でやってるんだ。それで満足してるんだ、君の評価は聞いてない。…という体でいる。そのあたりの繊細な感情は察して欲しい。暖かく見守ってほしい。

 

*1:こうなるのには理由があって、

偶然の科学 (ハヤカワ文庫 NF 400 〈数理を愉しむ〉シリーズ)

偶然の科学 (ハヤカワ文庫 NF 400 〈数理を愉しむ〉シリーズ)

 

 この本の中で、20世紀まで倉庫で眠っていたに過ぎない程度の価値だったモナリザがなぜ今日では美術界の至宝となったのか、特段技術も優れているわけでもないのに、ということが語られている。簡単に説明すると、フランスに所蔵されてたモナリザをある時、イタリア人が盗んだ。「この作品はダ・ヴィンチの母国イタリアにあるべきだ」と。当然、そのイタリア人は捕まってしまうわけだけど、そのストーリーにイタリア人は心を打たれて、彼を英雄視するし、モナリザはイタリア全土で順次展示されるしで、それ以後モナリザの価値は上がりっぱなしという現象が起きている。それで現在でもモナリザがなぜ美しいのかなんていうのを、構図がどうの、この描き方は…とか語れたりしている。滑稽なほどに。